ナルシス2世のブログ

エッセイ仕立てに構成。
第一章では高校生時代の入院記を
第二章では高校を卒業してからの職歴と、その中で出会った素晴らしい先輩方とのご縁や学び、エッセイを書く事になった経緯を記録した内容。

其の5 念願のショットバー エピソード③【出入口の法則】

学生時代からテレビゲームやエロ本にはまっていた俺には、これといった趣味や興味のある事がなかった。接客業にたずさわる上では致命的である。お客さんと会話する際の【話のヒキダシ】が少ないのだ。さらに典型的なB型である俺は、自分の話ばかりしていた。

 ある日、孔明店長は俺に休日の過ごし方を尋ねた。当時、俺は借金の返済もあり、ギリギリの生活を送っていたので、休日は出費を控える為に外出はしない。そう答えると孔明店長は【出入口の法則】について話してくれた。これはよく自己啓発本等ではメジャーな題材であるが、俺は初めて聞く法則について興味をもった。

 

孔明店長

『出入口の法則ってのがあってな』

『お金を使わん所には、お金が入ってけえへんね』

『出さないと、入ってこないってやつ』

『例えば、自分のお金でバーに呑みに行きます・・・』

『どんな呑み方する?』

『一杯だけ注文して、キョロキョロします』

『お酒以外の何かも勉強したいですし』

『バーテンダーですから』

孔明店長

『そやろ。そこでお前はお金を出しました』

『そして、何かを学びました』

『その後、勤めるお店で実践しました』

『上司から評価を受け、時給が上がりました』

『出した後、入ってきてないか?』

『呑みに行かずゴロゴロしてたら、どう?』

『ホンマですね。』

孔明店長

『自分への投資になってるやろ』

『お店に行ったり、出かける事で何かを学ぶ』

『そして、それは経験になり』

『経験は会話のヒキダシにもなるやろ』

『とにかく、何事にも興味を持ってみろ』

『お前、お客さんに自分の話しかしてないやろ?』

『顔ゆがめて聞いてるお客さんに気付いてるか?』

 

今までの自分の接客を思い出し、恥ずかしくなった。孔明店長は俺の弱点を的確に見抜き、克服する為の【気付き】を再び与えてくれたのだ。

自分で苦労して稼いだお金を使う事によって、その重さを学ぶ。お客さんもそんなお金を使って、自分の作ったカクテルを飲んでくれている事を忘れてはならない。自分への投資は必ず、形を変えて自分に返ってくる。そうして得たスキル(会話のヒキダシ・バーテンダーの知識やテクニック)を活用し、お客さんに還元する事により、自分達のお給料が発生している事を忘れてはならない。俺は孔明店長の教えをそう解釈している。

其の5 念願のショットバー エピソード②【お客さんと客】

月日は経ち、先輩達が辞めていったおかげで、俺はNo2になっていた。20代前半で調子に乗っている時期でもある。お客さんに対して感謝の気持ちを忘れながら勤務していたある日、俺は孔明店長との会話の中で最低な言葉を口にする。それが孔明店長を呆れさせ、そして恐らく失望させてしまったのだと思う。

その言葉は【客】だった。またしても、俺は気付く事ができなかった。その言葉を発した時だった・・・

 

『この店に客はおらん。』

 

その一言を最後に、生ビールエピソード時と同様に業務的な伝達以外はしてくれなかった。

意味不明・・・お店は満席なのに何故?客はおらんって?思考回路はあの時と同じく停止した。嫌われているのかとも思ったが、それは考えにくかった。No2として、孔明店長の右腕的ポジションに立ち、一緒に色々な修羅場もくぐってきた俺が、孔明店長に嫌われている訳がない。しかし、前No2の先輩が退職前に放った一言が脳裏をよぎる・・・

 

『今日で最後やから言うけど・・・』

『俺、お前のコト嫌いやってん』

 

その先輩が最後の勤務後、初めてラーメンに誘ってくれた日の出来事である。それは最初で最後のお誘いとなった。嫌味・皮肉等で言葉のイジメを受ける事もあったが、教わった事も多く、バーテンダーとしても、年上の先輩としても尊敬していた。だからラーメンに誘われ、俺はとても喜んでいた。そんな先輩から放たれた最後の言葉が【嫌いやってん】である。最悪のケースを想定し、半泣きで孔明店長に喰らいつく。

 

『教えて下さい。僕、何かしましたか?』

『全くわからないです。お願いします』

 

孔明店長は前回と同じく、淡々と話してくれた。

 

『客って誰や?・・・お客様ちゃうか?』

『お客様までは言わんでも、お客さんやろ』

『初対面の人を呼び捨てするか?同じ事やぞ』

『それにな・・・・』

『お客さんは数あるお店からこの店を選んでくれて』

『貴重なお金と時間を使ってくれてるんやぞ』

『そんなお客さんに対して失礼ちゃうか?』

『お前はそんなに偉いんか?』

 

そして続けて

 

『言霊って知ってるか?』

『言葉には力があってな・・・』

『言葉は思いになり、思いは行動になる』

『最近の自分の行動を振り返ってみろ』

 

言葉が出てこなかった。図星である。俺は【お客さん】を【客】と呼ぶ事によって、お客さんを見下していた。仕事に慣れてきた俺は、接客してやってる、旨いカクテルを作ってやってると、心の何処かで思っていたのだ。そして、思い上がっていた。ただ情けなく、最低だと自分自身を恥じた。

前回と今回のケースで孔明店長が目を合わせてくれなかったり、営業時間中に業務的な伝達会話以外はしてくれなかった事にも意味がある。思い上がって【感謝の気持ち】【おもてなしの心】を忘れた人間には、常にお客さんの事を考えながら仕事をしている人間と、同じフィールドに立つ資格すらないのだ。

孔明店長は【お客さん】を【客】と言わないのと同じく、自分達【バーテンダー】の事を【バーテン】と言わない。これがプロのスタンスだと俺は解釈している。だからと言って【客】と言う人が間違っているとも思わない。それぞれ価値観が違い、結果(集客・売上)を出しているのであれば何の問題もないのだ。それでも、俺自身は孔明店長の考え方を崇拝し、実践している。

其の5 念願のショットバー エピソード①【生ビール】

アルバイトとして雇ってもらったものの、初めからバーカウンターには立たせてもらえない。最初はホール業務からである。来店されたお客さんの席案内、オーダーの伺い、孔明店長や先輩バーテンダーがつくったお酒やオツマミを運ぶ。それ以外はホールに直立不動でいる事が、新人である俺の仕事であった。

そんなある日、生ビールを入れるチャンスを頂いた。俺は自身満々で生ビールを入れた。生ビールはママのお店でも扱っていたので、不安要素は何もなかったのだ。むしろ孔明店長に俺の仕事ぶりをアピールできるチャンスだと思った。しかし、残念な結果に終わる。生ビールをグラスに注ぎ、そのまま客席まで運ぼうとしたその時、孔明店長は俺の腕を掴み

 

『ちょっと待て・・・』

 

そして、生ビールを手に取ると

 

『・・・不味そう』

 

と言った後、生ビールを捨てた。俺は焦った。当時700yenで提供していた生ビールを、売り物を捨てたのだ。続けて放った言葉が、更に俺の思考回路を停止させる。

 

『もう今後、お前は生ビールを入れるな』

『カウンターにも入ってくるな』

 

そう言ったあとは、営業終了後まで目も合わせてくれなかった。

営業中も生ビールのオーダーは何度もあり、孔明店長や先輩が入れるのを観察していたが、違いが全く分からない。絶望的な結果である。ママの顔で紹介してもらった職場で、中途半端にケツを割る訳にはいかない。必死だった。納得いかなかった俺は、帰宅前に孔明店長に喰らいついた。すると、孔明店長は黙って生ビールをグラスに注ぎ、解説してくれた。生ビールを照明に照らし、白い泡と黄色いビールとの境目を指さした。

 

『ここ、見てみろ。煙みたなのあるやろ』

『これが、スモーキーバブルス・・・』

『こいつがあれば、生ビールは最後まで旨いね』

『後はこのクリーミーな泡がポイントな』

『作り方は教えへんけど』

 

最後の一言が意地悪に聞こえるが、見て盗めというメッセージなのだ。孔明店長が生ビールを一口呑み、グラスを置くと不思議な現象が起きた。泡が再生したのだ。

これがスモーキーバブルスの効果である。スモーキーバブルスのあるビールは、一定のペースで呑むと常に泡は再生し続ける。そして極め細かい泡は、ビール本体に対して蓋の役割を果たし、炭酸ガスを逃がし難くする。つまりこの効果は、気の抜けにくい状態で最後まで喉越しを旨く味わえるという結果をもたらす。

呑み終えたグラスも美しい。グラスの内側には、呑むたびにできた泡の後が、白いリングとなり、呑んだ回数分できあがっている。ご存じの方も多いが、これがエンジェルリングと呼ばれる、旨いビールの証なのだ。生ビール1杯でも、これだけ奥が深いのである。

学んだのはテクニックだけではない。何故、俺の入れた生ビールが流されたのか?上手に注ぐ事ができなかった生ビールであるが、お店のお金で仕入れた商品である。それを捨てた理由がわからなかったので、孔明店長に尋ねると、淡々と俺に話してくれた。

 

『一杯700yen・・・』

『安いか?・・・安くはないよな。』

『お前は、あのビールに700yen出せる?』

700yen稼ぐ為に、お前はどんな思いしてる?』

『勉強して、叱られ、悔しい思いして・・・』

『お客さんもみんな、そんな思いして稼いだお金やぞ』

『そんなお金を使いに来てくれてる事に感謝せな』

『ビール1杯も、感謝して美味しく入れる』

『そして700yen以上の価値を感じてもらう』

『それが仕事。お前がしてるのは作業って言うね』

 

最後のフレーズも意味が深い。作業に心はないが、仕事には心があるという意味なのだが、当時は理解できていない。経験を積んで行くうちに、ようやく作業と仕事の違いに気付いていく。

彼のお教えは、常に【気付き】を与えてくれる。その時は理解できなくても、役職やポジションを与えられ、視点が変わった時に初めて気付く事もある。現在を含め、何度も実感させられてきた。

今回のケースは、ママに教わった【おもてなしの心】にリンクする。俺はこの時、ママの教えの真意に近づいていたのだ。