其の5 念願のショットバー エピソード①【生ビール】
アルバイトとして雇ってもらったものの、初めからバーカウンターには立たせてもらえない。最初はホール業務からである。来店されたお客さんの席案内、オーダーの伺い、孔明店長や先輩バーテンダーがつくったお酒やオツマミを運ぶ。それ以外はホールに直立不動でいる事が、新人である俺の仕事であった。
そんなある日、生ビールを入れるチャンスを頂いた。俺は自身満々で生ビールを入れた。生ビールはママのお店でも扱っていたので、不安要素は何もなかったのだ。むしろ孔明店長に俺の仕事ぶりをアピールできるチャンスだと思った。しかし、残念な結果に終わる。生ビールをグラスに注ぎ、そのまま客席まで運ぼうとしたその時、孔明店長は俺の腕を掴み
『ちょっと待て・・・』
そして、生ビールを手に取ると
『・・・不味そう』
と言った後、生ビールを捨てた。俺は焦った。当時700yenで提供していた生ビールを、売り物を捨てたのだ。続けて放った言葉が、更に俺の思考回路を停止させる。
『もう今後、お前は生ビールを入れるな』
『カウンターにも入ってくるな』
そう言ったあとは、営業終了後まで目も合わせてくれなかった。
営業中も生ビールのオーダーは何度もあり、孔明店長や先輩が入れるのを観察していたが、違いが全く分からない。絶望的な結果である。ママの顔で紹介してもらった職場で、中途半端にケツを割る訳にはいかない。必死だった。納得いかなかった俺は、帰宅前に孔明店長に喰らいついた。すると、孔明店長は黙って生ビールをグラスに注ぎ、解説してくれた。生ビールを照明に照らし、白い泡と黄色いビールとの境目を指さした。
『ここ、見てみろ。煙みたなのあるやろ』
『これが、スモーキーバブルス・・・』
『こいつがあれば、生ビールは最後まで旨いね』
『後はこのクリーミーな泡がポイントな』
『作り方は教えへんけど』
最後の一言が意地悪に聞こえるが、見て盗めというメッセージなのだ。孔明店長が生ビールを一口呑み、グラスを置くと不思議な現象が起きた。泡が再生したのだ。
これがスモーキーバブルスの効果である。スモーキーバブルスのあるビールは、一定のペースで呑むと常に泡は再生し続ける。そして極め細かい泡は、ビール本体に対して蓋の役割を果たし、炭酸ガスを逃がし難くする。つまりこの効果は、気の抜けにくい状態で最後まで喉越しを旨く味わえるという結果をもたらす。
呑み終えたグラスも美しい。グラスの内側には、呑むたびにできた泡の後が、白いリングとなり、呑んだ回数分できあがっている。ご存じの方も多いが、これがエンジェルリングと呼ばれる、旨いビールの証なのだ。生ビール1杯でも、これだけ奥が深いのである。
学んだのはテクニックだけではない。何故、俺の入れた生ビールが流されたのか?上手に注ぐ事ができなかった生ビールであるが、お店のお金で仕入れた商品である。それを捨てた理由がわからなかったので、孔明店長に尋ねると、淡々と俺に話してくれた。
『一杯700yen・・・』
『安いか?・・・安くはないよな。』
『お前は、あのビールに700yen出せる?』
『700yen稼ぐ為に、お前はどんな思いしてる?』
『勉強して、叱られ、悔しい思いして・・・』
『お客さんもみんな、そんな思いして稼いだお金やぞ』
『そんなお金を使いに来てくれてる事に感謝せな』
『ビール1杯も、感謝して美味しく入れる』
『そして700yen以上の価値を感じてもらう』
『それが仕事。お前がしてるのは作業って言うね』
最後のフレーズも意味が深い。作業に心はないが、仕事には心があるという意味なのだが、当時は理解できていない。経験を積んで行くうちに、ようやく作業と仕事の違いに気付いていく。
彼のお教えは、常に【気付き】を与えてくれる。その時は理解できなくても、役職やポジションを与えられ、視点が変わった時に初めて気付く事もある。現在を含め、何度も実感させられてきた。
今回のケースは、ママに教わった【おもてなしの心】にリンクする。俺はこの時、ママの教えの真意に近づいていたのだ。
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