ナルシス2世のブログ

エッセイ仕立てに構成。
第一章では高校生時代の入院記を
第二章では高校を卒業してからの職歴と、その中で出会った素晴らしい先輩方とのご縁や学び、エッセイを書く事になった経緯を記録した内容。

其の7 東京歌舞伎町のBAR

26歳の10月、俺は夢と希望を膨らませ東京へと飛び立った。この地でもたくさんの縁があり、多くを学び、貴重な経験もできた。その中でも大きな縁になるのが、東京で出会い付き合う事になった女性との縁である。過去のトラウマから、人を本気で愛する事が出来なくなっていた俺に愛を与え、そして愛を教えてくれた女性でもある。そんな彼女との出会いも含め、ここでは色々な人との出会いを中心に紹介していこうと思う。

 

高校時代の同級生が東京大学で院生をしており、彼と共同でアパートを借りる事になっていた。場所は山手線の巣鴨駅から徒歩5分圏内のぼろアパート。東京に着いた翌日から求人誌を片手に、アパート近くのインターネットカフェで仕事探しを始めた。お金もたくさんあったので、焦らず一つに絞ってから面接に向かった。

俺が目をつけたのは、東池袋にあるショットバー。カクテルの数も多く、若者の街のイメージもあり、可愛い女の子もたくさんいる。俺ほど男前ならスグに可愛い彼女もできるとワクワクしていた。最低な感覚だが、真剣に付き合う彼女をつくる気は毛頭ない。

面接を終え、手応えも感じた俺はハイテンションで巣鴨へ帰宅。面接の結果が出るまでの数日間は、バイト探しをしないで東京観光と路線を勉強して過ごしていた。

採用であれば一週間以内に連絡が入る事になっていたが、携帯電話が鳴る事はなかった。7日目の0時を過ぎてから次のバイトを探す為、俺はのんびりと求人誌を片手にインターネットカフェに入った。

しかし、席についてすぐに携帯電話が鳴りだした。採用されたと喜んだが、話の内容は少し違った。前回の募集で良い人材が入ったようで、俺は不採用とのこと。しかし新宿の歌舞伎町にも店舗があり、アルバイトを募集しているとの事だった。勤務場所にこだわらないのであれば、歌舞伎町店の支配人に紹介を入れてくれるという。不採用にも関わらず、なんとも有難い対応だ。迷いは全くなかった。池袋より距離はあるが、歌舞伎町という響きが妙にしっくりきたのだ。一つ返事でお願いし、翌日に新宿歌舞伎町へ面接を受けに向かった。

面接をしてくれたのは歌舞伎町店の支配人だった。京都出身の明るくて気さくな感じの男なのだが、時おり混ざる関西弁が俺の緊張を更にほぐしてくれた。その支配人も俺が大きく影響を受けた人間の1人だ。年齢は俺の6つ上で、歌舞伎町店のトップである。支配人は当時の俺と同じく26歳の時に東京に出てきたそうだ。バイトから入り、正社員になり、支配人というポジションまで昇った努力の人である。26歳にして飲食業は初めて、アルバイトの先輩は年下ばかりという事もあり、血の滲む努力が必要だったに違いない。

支配人は仕事ぶりを背中で見せてくれるタイプの男だった。部下に対し、指示を出すだけでなく、自らも率先してこなす。当たり前のように聞こえるが、できている人は少ない。その仕事ぶりを現すエピソードがある。

外販活動の一環で、訪問営業をする仕事があった。飲み放題付きのパーティープランを記載したチラシを持って、会社や物販店を周り、団体の宴会予約を強化する狙いの仕事だ。繁盛店ではあるが、こういった活動を常に行っている素晴らしいお店だった。

俺は訪問営業の担当に選ばれ、各スタッフの活動を集計する役目を与えられていた。新宿のどのエリアで誰が何件まわったか、反応はどうだったか、訪問営業をする際に効果的な案内法・反省改善点などを報告する役目である。最初はスタッフ全員がやる気満々だったが、報告件数は徐々に少なくなっていた。訪問営業はミーティング後に全員で行う以外、基本的には出勤前や休日を使って各自で行っていた。学生のアルバイトにとって本業は学業、フリーターの俺もアルバイトなので時間給だ。時間があれば、別のアルバイトを探した方が稼げる。よく考えれば実にバカバカしい。

しかし、俺は訪問営業の担当で集計報告係りでもある。その俺自身の訪問件数が少ないのは、役目を与えてくれた支配人に対しての不義理になってしまう。気持ちは乗らなかったが、出勤前や休日を使って件数をこなし続けていた。報告件数が少なくなっていく中、支配人だけは件数が増えていた。普段の営業も現場に立ち、営業後には支配人業務もあり、休みも少ない。そんな支配人が、担当である俺に笑顔で件数報告を続けていた。そして俺が休日を使って訪問営業をしている事を知ると、休みが同じ日を見つけ、一緒に行こうと声をかけてくれた。

バカバカしいと思っていた自分自身が恥ずかしかった。支配人を見ていたのは、俺だけではなかった。彼の部下全員が、彼の背中を見ていたのだ。それを示すが如く、ある日を境に報告件数は増え始めた。偉そうに命令するだけでは、人はついて来ない。支配人は見事に部下達の心を掴み、売上としての結果も出していった。

もう一つ惹かれたとすれば、支配人が部下に接する時の気持ちかもしれない。彼は俺達部下の事を、部下と表現した事は一度もないのだ。ミーティングで話す時も、常に俺達の事を仲間と呼んでくれていた。俺は支配人の人柄に惹かれ、彼の元で仕事をしながら多くの事を学ぶ事ができた。その他のスタッフもみんな最高だった。もちろん短所もあったが、それ以上にそれぞれ個性的な長所があり、俺の中では最強メンバーだったと思っている。

副支配人はバーテンダーとして素晴らしい技術を持ち、彼の作る繊細なカクテルは誰もマネが出来ない!

バー担当のアルバイトAはムードメーカーで、カウンターに立てば絶妙なトークでお客さんを盛上げ、ドリンク提供スピードは店内トップ!

ホール担当のアルバイトKRの2人はどんなに忙しくても落着いた優しい接客をこなし、バーやキッチンへ伝えるオーダー優先順位の指示も的確!

トップランナーという役職を与えられているアルバイトHは、全てのポジションをバランス良くこなし、責任感の強さはダントツ!

キッチン担当の俺は料理をレシピ通り正確に、クオリティーを守りながらスピーディーに作っていた。

支配人は部下の力を把握し、個々の能力を伸ばしながら、個性あるメンバーを率いていた。それぞれが、全てのポジションをある程度できるようになっていたのだが、最も力を発揮できるよう適材適所に配置し、お店を盛り上げていた。

女性にモテたくて飛び込んだバーテンダーの世界。この歌舞伎町のお店では、俺の担当はキッチンがメインで、ほとんどホールにもバーにも出る事はなかった。それでも楽しく仕事ができたのは、このメンバーのおかげだった。新人は最初キッチンにポジションを置かれ、できる様になればホールに出される。ホールができる様になれば、華型であるバーに立たせてもらえるのだ。

俺は同期の中では料理の提供スピードも含め、バーに立たせてもらうのも一番遅かった。バーに立たせてもらえても、提供スピードは遅い。大阪ミナミのバーで鍛えられた俺は、副支配人の次くらいに美味しいカクテルをつくれる自信があった。しかし、このお店では【スピード>クオリティー】でなければ通用しない。もちろんクオリティーが低いわけではないが、お客さんがこのお店に求めるニーズは【スピード=クオリティー】ではないと感じた。

それを強く感じたのは、バーテンダーになりたての頃に孔明店長から学んだ【生ビール】だった。このお店でバーに立たせてもらった時、俺は孔明店長から学んだ最高の生ビールを注いだ。それをホールにいた副支配人が『親切じゃねぇ~な、このビール』と言って不愉快そうに運んでいった。俺は副支配人の言う意味が理解できなかったが、支配人やバー担当のAが注ぐ生ビールと比べて気付いた。

それは泡だった。孔明店長から学んだ極め細かい泡ではなく、荒い泡でモッコリと表面張力状態になっている。俺が入れた生ビールの泡は極め細かいので、運ぶ時にバランスを崩せば溢れるくらいの状態なのだ。混雑したピーク時の店内でドリンクや料理を運んでいるホールからすれば、俺の注いだ生ビールは迷惑なだけで親切さに欠ける。運びにくく、溢れてお客さんにかかってしまえば、お客さんにも迷惑がかかるのだ。旨いのは俺が入れたビールに決まっているが、お客さんはそこまでの生ビールは求めていない。いかにスピーディーに冷えた生ビールが運ばれてくるかが肝心なのだ。カクテルに使用している氷は製氷機でつくられた氷だし、価格もミナミのお店と比べれば非常に低価格なのだ。

副支配人は何も間違っていない。彼ほどの優秀かつ繊細なバーテンダーであれば、旨いビールなんて簡単に注ぐ事ができるはずだ。彼のようなバーテンダーになれば、お客さんのニーズに柔軟対応きるようになる。俺は自分の未熟さを改めて思い知らされたと同時に【スピード=クオリティー】が全てではないと感じたのだ。他のアルバイト仲間からも、そのような感じでたくさんの事を学ぶ事ができた。

そんなある日、一人の女性との出会いがあった。彼女が初めてお店に来た時、俺は休みだったのだが、バー担当のAが俺の話をしていた。彼女と俺は同じ年齢で、大阪出身なのに面白くない関西人として紹介されていた。そして明日は出勤しているので、またお店においでと誘っていたのだ。Aの紹介が興味をそそったのか、面白半分なのかはわからないが、彼女は翌日もお店にやって来た。同じ年齢という事もあり、話は盛上った。何度か食事へ行ったり、映画を観に行ったりしていくうちに、そのまま付き合う事になった。最初はお互いに遊びで、別に真剣な交際ではなかった。彼女自身もそう話していたし、俺も過去にトラウマがあり、どこかで一歩引いていた。

 それを知ってか、彼女はいつの頃からかたくさんの愛情を俺に注いでくれるようになった。とても新鮮な感覚だった。風邪をひいた時にお粥を作りに来てくれたり、彼女が休みの日は食事を作ってアパートで待っていてくれたり、遊園地で子供のようにはしゃいだり甘えたり、恋人同士では当たり前に行われる日常が、俺には非日常で戸惑う事も多々あった。

時には俺の無神経な言動で、彼女を傷付けて悲しませた事もあった。それでも彼女は俺を理解しようと、常に努力し続けていてくれたように思う。今思えば、感謝しかない。



麻痺していた人を愛するという感情が戻りつつあった頃、ミナミのショットバー時代の孔明店長から連絡があった。大阪市内で自身のお店を開業するとの知らせで、かつての約束通り俺に声を掛けてくれたのだ。

時は200510月。オープンは11月予定との事で、年明けに大阪に戻って来る事が可能かといった内容だった。迷いはあったが、俺は大阪へ帰る事を決意する。

支配人にその内容を伝え、翌年の1月末で俺の退職が決まった。彼女との事もあったが、俺は遠距離でも大丈夫だと思った。しかし、トラウマは思っていた以上に深く、俺の心を蝕んでいた。遠距離になってからも、彼女は週末の休みを使って大阪へ会いに来てくれたが、会う機会が少なくなってくると、俺の感情は徐々に変化し始める。彼女を大切に思う気持ちは変わらなかったが、恋愛感情が持てなくなっていた。実に勝手で最低な男である。葛藤の末、彼女とは別れる事になった。それから今に至るまでの約10年間、俺は特定の女性とお付き合いをしていない。

恋愛に興味が持てなかった俺は、仕事に没頭した。恋愛が面倒に感じ、時間の無駄使いだとさえ思うようになっていく。ただ、ふとした瞬間に彼女の笑顔を思い出し、心が苦しくなる事もあった。俺の恋愛史において、あれだけの愛情を注いでくれた女性はいない。失って初めて気付く深さは、俺が真剣に彼女を愛する事が出来ていた証でもあった。底知れぬ感謝の気持ちはあっても、未練は全くない。彼女が幸せになってくれているのであれば、それだけで充分であり、俺がしゃしゃり出る幕などはない。

現在、彼女は素敵なパートナーと出会い、2人の子宝にも恵まれ、幸せに暮らしている。